君子豹変…超冷静に変化を楽しめる変人?
どうも、Rikiya The Powerです。
実は1/28〜1/30の夜くらいまで、久々に3日くらいくた○ってた笑。その後まともに動けるようになったのは2/5(土)くらいだった。
せめてもの救いは、「完全に何もしない」レベルまでは落ちなかったし、復活も割と早かったことかな。
下らないことで久々にスッゲー頭にきてたけど、コンディション整えて改めて考えると、大したことではなかったと思える。
そりゃ何事も「All OK」とはいかないし、まだまだ不確定要素はある。
何はともあれ、目の前にあったモヤモヤする霧みたいなものは晴れた。自力で抜け出せたことは、ちょっとした進歩かな笑
ということで、今回は復活を記念して、景気付けの1本といこう。
デイトラ中級 総復習編を終えて
ときに1/25(火)、夜中の2:20頃。
デイトラ中級、総復習編を終わらせた。
「sobolon」という実在するアクセサリーブランドのLPを再現するカリキュラムだった。
※現在の、実際に「sobolon」と検索してヒットするWebサイトとは形式が少々異なる。
デイトラ側が既存サイトを典型パターンにアレンジしたのか、sobolon側が現在のサイトにアレンジしたのかは不明だ。
どちらにせよ、再現版が決して「簡単になった」わけではない。
むしろ、あえて現行(と思われる)サイトを見て、再現パターンの方が基本がしっかり詰まってる分、ちゃんと再現するのは難しいだろう。「あえて現在の形にしている」んだと思う。
「スマホ版の画面に切り替えたら現れる、謎の余白」とか、「GoogleFormを利用したお問合せフォームの実装」などと格闘した。
いかにも素人臭い課題にぶつかりつつ、無事に完成できた。
でも、宣言していた様なスピードでのデイトラ卒業には至らなかったわけだ。
(ま、後述するけど、そもそも終わらなくて当然だし、途中で肝心な見落としに気づいた笑)
その辺の話に入る前に、持論を展開しておく。
普段なら「終わりに」で書く様な内容だけど、今後の話を展開する上で重要だからね。
「本物」たる資質
何かに挑戦する全ての人が、絶対に避けて通れない道。
というより、日頃の姿勢とか心構えみたいな話かな。
それは、いざと言う時に、ごまかしなんて通用しないということ。
ここで言う「いざ」とは、何も人生を左右するほどの大決断とは限らない。
ちょっとした選択だとしても、「どうしようか」と迷って、自分で「こうしよう」と選択する。
その選択を「実践する瞬間」は、「いざ」と言って良い。
ごまかしたとして、たまたま他人にバレなかったとしても、結局痛い思いをするのは…自分。
人生においてとか、成功に必要なものは何か?なんて言われたら、今の僕が語るにはほど遠い。
それでも、今の僕にでも分かる、個の要素として欠かせないものが1つある。
素直さ?適応力?言い方は色々ある様だが…
それは、時に勇気を伴う「柔軟性」だ。
(僕自身、柔軟性に欠けすぎて、どれだけ苦い思いをしてきたことか!笑)
さて、柔軟性は自分が何者であっても重要な要素。
ましてや、あなたが「何かを目指す挑戦者」であるならば、なおさら備えていなければならない資質だ。
それを認められない者、そもそも備えていない者は、一定以上の領域を出ることはないとさえ思う。
というか、僕が素直に「すごいな」と思える方々を思い浮かべてみても、意志は強くとも例外なく柔軟性がかなり優れてるんだよな。
目の前で起こる不測の事態には、多くの場合「臨機応変さ」として発揮される類のもの。
いずれにせよ、誰が、どこに、どれだけ進んだとしても…必ず「判断」や「決断」のときに絡んでくる重要な要素が柔軟性だ。「時に勇気を伴う」
訳もわからず走る様な勢いとか、ノリが大事なときもあると思う。何となくで乗り切れる場合もあるが、ほとんど運任せと言っている様なもの。
もちろん、運を否定するつもりはない。
ただ、ここで言う「柔軟性」を支える根幹は、圧倒的冷静さなんだ。
「ああどうしましょう!」とうろたえていては、まともな判断などできるはずもない。
自分を保ちながら、混沌をものともせず進んでいく。ある意味、強い意志の現れともいえようか。
この点は、次章でもう少し掘り下げる。
さて、久々にダウンしているとき、ぼんやり考えていたことがある。
もし自分が避けて通ってきたもの、拾えずに来たものがあるなら、そのおつりはどこかで必ず払うことになるってこと。
礼儀作法、基本的素養(教養)の差、読書で得られる様な体系的知識、思考力の差、練習や鍛錬の積み重ねおよび経験の差(実力の差)、持ってる資本…何でも良い。
言い出したらキリはないけど、こういう目で見えにくい(意識しにくい)要素の不足で、あからさまに苦い思いをすることは多々ある。
とはいえ、この記事も僕自身の考え方も、「全てを兼ね備えた神を目指しましょう」なんてテーマではない。
ただ、何かしらの差とか、「至らなさ」を痛感する経験はあなたにもあるだろう。
自分ではどうしようもない状況で、「あの人ならどうするだろう」とか「もっと力があれば」なんて思う場面には、僕も嫌と言うほど遭遇している。
問題は…
明確にこれと分からない場面で、その「至らなさ」が現れる場合があるということ。
そういう時は、気づかぬうちにチャンスを逃していたり、そもそも戦う前から負けていたりする。
で、大抵の場合は、その要因を見逃してしまう。
頭が良いとか、察しが良いと言われる人でも見逃す…というか、彼らの場合は(無意識レベルであれ)気づかないフリをすることがあるから、更に厄介だ。
恵まれた環境で育った人、頑張って努力を重ねてきた人、何らかの結果を出したことで「その結果に自信がある」人ほど簡単に陥りやすい、罠みたいなもの。
理由は案外、単純だったりする。
どんな人にも、プライドや偏見、もっといえば「自分に都合の良い思い込み」みたいな、観念がある。
だから、気づいたとしても、あえて本質を見ようとしないというか…。
身についた類稀な能力や思考力、あるいは環境要因に助けられ、みるべきものを「見なくて済んでいる」ことが多かったりする。恵まれているはずの要素が裏目に出てしまう場合もある…とも言えるけど、むしろ「それゆえに」、いざという時にそれっぽい誤魔化しや正当化の心理が生じやすいということでもあるんだな。
しかも、その時頭に浮かぶ言い訳は定説の様に、業界や世間に根付いているものもある。
「そういうもんでしょ」と言わんばかりに。
だからこそ厄介で、簡単にハマリやすい罠なんだ。
だが誤魔化したところで、問題が消えてなくなってくれるわけではない。
ちゃんと向き合う勇気を持てなければ、かなり遠回りをすることになるか、目指すゴールにはたどり着けなくなる恐れすらある。誤魔化しと工夫は、似て非なるものであるということを、認識しなければならない。
どんな技術、能力も、1日や2日でどうこうできるものばかりじゃない。
目標が大きく感じるほど、プレッシャーと不安の中で、「楽してデカい結果は出せないか」と安易な誘惑に負けそうになる。
ピンチのときですら柔軟に対応し、どうにか積み重ね続けることが肝心なんだ。
※努力=苦行である必要はない。
同じ結果を求める上で、「もっと楽をする」という視点も確かにある。
これは「工夫」という点で僕の持論とも矛盾していない。
その辺りは、次回の記事で掘り下げることにしよう。
自分が当事者であるなら、立場に関わらず、このテーマはダイレクトに降りかかる。
「必要だけど、できない(足りない)要素」があるなら、諦めて他の方法をとるか、時間をかけて底上げをはかるか、自分以外の誰か(モノやカネなら、持ってる人から借りる等)で補強するか…
選択肢は3つだ。
その時々に、様々なリソースと相談して、「柔軟に」判断する必要がある。
…そろそろ、柔軟性を支えるのは冷静さであるという主張の意図、趣旨が見えてきたかな?
身体はもちろん、脳や精神も、「柔軟性」は常に、武器になる。
と、少々長くなってしまったが…
そろそろタイトル回収に移ろう。
君子とは、ただ頭が良いだけではない
君子豹変という言葉は、『易経』(えききょう)が出典だ。
その『易経』は古代中国の「占筮(せんぜい)の書」の1つで、五経(ごきょう)と呼ばれる、儒教の重要な5つの経典の内の1つだね。
君子とは本来、徳と行のそなわった人…
つまり学識だけでなく、人格もすぐれた立派な人のこと。
豹変とは、ヒョウの毛が季節によって生え替わり、斑文も美しくなってゆく様を表している。ヒョウの毛(模様)が替わっていくように、君子は時代の変化に適応し、自己を変革する。
良き君子は、自身の誤り、あやまちをすぐに認め、改める。そんな素直さ、潔さを持っている。
保身のために誤魔化したり、ズルをしようとはしない。
まさに柔軟性…これが本来の、君子豹変だ。
自分の間違いや、狭い固定観念に気づくきっかけは、些細なことで良い。
「こうしないとな」と思うなら、素直に動く。
もちろん、そういう「きっかけ」に気づくことも大事だけど、素直に行動に移すためには余計な心理バリアを取り除いて実践する潔さが肝心だ。
それに、変化するって悪いことばかりじゃない。
むしろ、ワクワクして楽しいものじゃないか。
分岐点で、「難しそうだ」「無理そう」と迷うとき…
同時に「面白そうな点」「やった方が良いと思う理由」にも目を向けることで、案外アッサリ決断できたりする。
「すごいな」と思う人たちって、いつも大変な決断を迫られる立場の人が多いはずなのに、なぜか楽しそうに見えないか?
彼らの輝き、心意気は、君子豹変という言葉に集約されている…と、僕は思う。
では、違うアプローチもしてみよう。
前置きと称した前章は、「足りないものを軽んじるな」という論調だった。
だけど同時に、既にあるものを見落としてはいけない。
「ないもの」にばかり目を向けていては、何をするにつけ、「だからできない」という悲惨な結論を導きかねない。
「現状あるもので、できることは何か(どうすればできるか)?」という視点で考えるとき、必然と「既にあるもの」を頼りに結論を導こうとするはずだ。
その仮説の中に、どうしても無いもの(必要なもの)が現れたときこそ、「工夫という名の柔軟性」が力を発揮する。
君子たる挑戦者たちは皆、そうやって目の前の課題を克服しながら、見事なまでに困難を打開し、活路を開いていく。
1つの戦いに勝っても負けても、足りないものと得たもの(できたなかったことと、できたこと)を認識し、次の一手を打つ。
一定のゴールを見据えながら、現在できる最高を積み重ねていけば良い。
「気分が乗らない」時だって、そのときできる最低限のことが「現在できる最高」なんだ。
全てのものごとで毎日ベストを更新しなければいけないわけじゃないんだ。
場面ごとの最優先を見極め、柔軟に足りないものを補い続け、必要とあらば豹変し、それ自体を楽しむ…
口で言うほど簡単ではないというか、誰しもがシンプルに実践できるかと言われれば、難しいと思う。
それでも、ますます混沌を極める現代において、「君子豹変」はとても分かりやすい指針になると思う。
要は、今見えてるものだけが、全てじゃない。
「ダメだ終わった」と思ったときこそ、自分に「本当にできることはやり尽くしたのか?」という呪文を唱えたいものだ。
そうすれば、今まで見えなかった扉が出現するかもしれない。
ではいよいよ僕の、次の一手について共有する。
根本から勘違い笑 まさかのシナリオ変更! の巻
「1月でデイトラ卒業」と息巻いていた僕は後に、非常にバカバカしい見誤りに気づく。
前記事更新後の僕は、倒れる直前の25日まで、朝から晩までデイトラだった。
進捗は内容によりけりだったが、一番調子が良かった日は、1日で5日分以上進んだ。
「この調子ならいけんじゃね!?」とぬか喜びしたのも束の間…
総復習編に突入する前に、「さすがに無理だわ!」と気づいてしまった笑
というか、前記事更新時点をスタートとすると、期間設定が短過ぎたのである。
「また言い訳かよ笑」と呆れなさる前に…
(そもそもなんでそんな無理な設定をしたのか?という説明は、後ほど。)
ことの発端は、デイトラのホーム画面(ログイン後)にあるカリキュラム数の見誤りであった。
この「カリキュラム数」は必ずしも「かかる日数」は表していないんだ。
(あっ、デイトラへの不満が始まるわけじゃないぞ!)
例えば、「3日かけて終わらせる」ことを想定しているカリキュラムでも、あくまで1つの内容としてまとまっていれば、カリキュラム数は1カウント。
ゆえに、DAY ○○(何日目か)とは一致しない。
※直近で終わらせた中級総復習編(sobolonの再現)はDAY30〜32と3日想定であり、僕も結果的に3日かかった。
これから本格的に取りかかる「中級 最終課題」ってやつはカリキュラムとしては1つだけど、DAY33〜37と5日間を想定した内容だ。
中身を見た限り、これを1日で終わらせるというのは現実的ではない。
少なくとも3日かかる。
この辺りからも、無理な期間設定が伺える。
さて、デイトラに限らず、スクールに対して「カリキュラムの内容が難しい」とか、「多すぎる」とか言う人もいるみたいだけど、スクールの運営陣は「人様からお金をもらう人」を育てる立場なわけで、そりゃ温いことばかりは言ってられない。
多くの企業研修がそうである様に、「実務で通用する人」を育てようと思ったら、相応のカリキュラムを用意し、心構えや現実の厳しさも教えるのが筋だわな。
(僕もかつては研修担当だったから、少しは理解できる…。)
デイトラのカリキュラムは、素晴らしいと思う。
初歩の初歩から積み上げていくだけでなく、無駄がない。たとえ難しい内容でも、「ちゃんと向き合えばゴールにたどり着ける」様に設計されている。
簡単過ぎず、難し過ぎない。
完全に手取り足取り教わるわけではなく、「自力で考える」部分がちょうど良く散りばめられている。
ヒントはあるが、もしお手上げ状態になっても(問題が発生しても)、Slackの専用コミュニティを使えば直接質問をすることができる。
何より素晴らしいと感じる点は、「クリアした分だけ着実に力がつく」ということ。
現状の僕も既に「着実に力がつく」ということを実感できている。
1つ1つが、意味のあるカリキュラムだったことの証明だ。
ここで、上級編のカリキュラムをザックリ説明させていただくと、「PHPやSQLの基礎の学び、WordPressを掘り下げ、それらの関連事項を学ぶ」という感じ。
厳密には色んなことを学ぶけど、「WordPressを使ってWebサイトを作る」ためのカリキュラムといえる。
カリキュラム数こそ26個だが、想定日数は44日!!
新たなProgramming言語を学ぶのに、前記事時点の状況で、「上級も含めて1月で終わらせる」ってのは無理があるわな笑
今後ますます「勉強ばかり」はしてられない状況になるし、上級のラスボス「卒業制作課題」の完成は、3月に及ぶと踏んでいる。
そもそも僕がデイトラを終わらせようと急いだ理由は、何も「勢いとノリ」だけでじゃない。
例えばCS(クラウドソーシング)でお金をいただこうと思ったら、単なるコーディング技術以外にも、いくつか必要な材料がある。
だけど、そろそろ本格的に「自分からも案件を獲得」していかないと、まずい状況になってきたんだな。
まあ理由はなんであれ、投資家T氏にも、TwitterやBlogでも「1月で卒業する」と宣言してしまった。
しかし現状、卒業するには至っていない…と。
僕的に、理想とする状態での2月は迎えられていない(ほとんど自己責任だけど笑)。
で、具体的に何が問題になるのか?
1/28の夜、メンバーのキャメル氏と2人で、ZOOM会議をしたときのこと。
会議の終盤、僕のPC画面を共有しながら、改めてCW(クラウドワークス)の案件を覗いてみた。
すると、発注者の提示条件に…
「1件でも企業相手の仕事経験があること」とか
「何かしらのスクールを卒業していること」とか、僕が当初想定していた通りの条件を提示している案件が多かった。
発注者の立場になって考えてみれば、不安材料はなるべく取り払いたい。
ここに載せた各条件が、仕事をする上での「必要十分条件」であるかは疑問も残るけど、分かりやすい条件だとは思う。
現状、無いってこともないけど、「やればできそうだけど、土俵に上がれない(挑戦権がない)案件が多い」ということ。
では、どうするか…?
葛藤の末に
既にお察しの方もいると思うけど、一旦ここまでの僕の考えを簡単に整理しておく。
これまでの僕は、CS案件を含め、「自分発信で全く知らない人に営業」みたいな形で積極的に案件をとることがなかった。
(その辺りについては2022年最初の記事をご覧いただきたい。)
ただ、数こそ多くはないけど、現状の僕にも挑戦権があって、「これなら僕にもできる」と思える案件は確かに存在する。
今。中級終了目前。
「参考サイトの様な形のカンプ(仕様書)を用意するから、その通りに仕上げてほしい」という趣旨の案件を見てみたら…
全体の構成(共通してる箇所など)を把握しつつ、パーツごとに分解して「ここは、アレを使えば実装できるな」とか「この前作ったもののアレを応用できる」なんて考えながら、自然と完成の流れが思い浮かぶ様になっているではないか…。
先ほど、デイトラについて「クリアした分だけ着実に力がつく」と言ったけど、僕は明らかに成長している。いつの間にか点と点が線になってきて、引き出しが増えていた。
「分かる様になっている自分」に驚いたんだ。
(デイトラを始める前は、業界用語のせいもあって「何がわからないかも分からない」状態だったのに…。)
では、結論!
中級の最終課題を完成させたアカツキには、CSなどの案件に挑戦しようと思う。
思うことは色々あるけど、そろそろ階段を1段登るときだと判断した。
ただし、案件への応募をしつつも、時間を決めて上級も進めていく。
必ず、上級まで卒業するからな。
ま、今後の具体的な動きも、追って共有させていただくぜ!
かつてできなかったことは、これからもできないのか?〜終わりに〜
今月の21日で、The Power Projectを立ち上げてから1周年を迎える。
改めて1年前の記事を読んでみると、書き方はかなり雑…というか、改行のタイミングが不自然だったり、話が異様にとびとびだったりする。我ながらヒドいもんだ笑
(最初期から感想いただいている方々、付き合ってくれて本当にありがとう…。)
まだまだ下手くそだし課題はいくらでもあるけど、考えながら書き続けることで、少しずつ力は付いてると感じる。
ま、こればっかりは僕だけの力じゃないな。
ここまで読んでいただき、感想をいただいて、試行錯誤しながらここまで続けてきた。
励ましてくれる人たち、「面白い」って言ってくれる人たちに、本当に感謝している。
そして、これからもよろしく!
一方プログラミングも、デイトラや関連書籍、他の発信者の方々から日々学び、確実に景色が変わってきている。これも、日々積み重ねてきた結果だ。
今できることは全て、かつてできなかったこと、知らなかったことばかり。
だからこの先も、日々練習、勉強を重ね、それらを活かして挑戦し、また腕を磨き続ける。
重ねた無数の点が、いつのまにか線になって、形になっていく様に。
いつか「やっとここまで来たか」と思った瞬間、今日という過去に「自分が戦った証」として、自分に感謝することになる。
そして周囲にいる仲間に、それまでの「申し訳なさ半分」とは違う感覚で、心から感謝する瞬間でもあるんだろう。
そしてまた、「よし、これからだ!」と決意する。
何か行動を起こそうとするとき、それが思い切った行動であるほど、周囲の反対や批判は強くなる傾向にある。僕の場合、これまでどんな時も、足をひっぱろうとする最大の敵は「内なる弱い自分」だった。
ビビってる自分、言い訳する自分こそが、手を止めさせ、歩みを阻害する。
僕は元々異常なほど考え過ぎてしまう癖があるけど、ただ考えてばかりいるときは、何も変わらなかった。
「考えることに集中するため」に立ち止まったときは、結果的に無駄ではなかったこともある。
ただ、「動けなかった」先で迎えた現実は、受け入れ難いものばかりだった。
一方、良い意味で「変わった」と実感できている記憶は、どれも腹くくって動いたときだけ。
結果は、その過程の努力を含め、実際の行動量に比例している。
正しい方法で、正しい方向に努力しているという前提は必要だけど、そもそも実りのない努力をしているときは、「実は自分でもよく意味が分かってない」挙句、目的に沿う行動をできていないときだ。
というか、理由を説明できるくらい明確な行動なら、たとえ反対意見を言ってくる人がいてもブレない。
もしムカつきはしても、必要とあらば自信を持って意見できるはずだし、行動を止める理由にはならないはずだ。
…まだまだ足りないな。
もっと動こうと思う。
思うっていうか、動く。
面倒ごととか、狭い世界にとらわれず、本領を発揮していくか。
良いアイディアが浮かんだら、今までよりも早く、仲間とか、それについて詳しい人に共有してみよう。
考えが煮詰まってきたら、全く違うことをしたり、潔く仮眠でもとって、頭を切り替えてみよう。
どんなときも、迷った時の切り札は、誰かの意見に従うことじゃない。自らの意思で決め、行動すること。
「誰か」が最後に責任をとってくれるわけじゃないなら、どんなにそれらしい意見だったとしても、その誰かはあくまで参考にしかならない。
もちろん、意見を聞くことが必要な場面もある。
誰でも良いわけじゃないけど。
その時ですら、必ずしも言う通りに従う必要なんてない。
意見を聞くべき相手は、基本的にあなたのことを本気で応援し、実際に力を貸してくれる人だけ。
口だけやかましく、何もしてくれないなら、話を聞くだけ時間の無駄なんだ。
日々継続していく中で、「あれ?思った様にいかない…」「なんか違うな」と感じる瞬間。
そんなときこそ、冷静に、柔軟に。
考え方でも、ちょっとした行動でも、「受け入れる勇気と、変えていく柔軟性」を味方につけることさえできれば…人生で怖いものなんてほとんどなくなるのかもしれないな。
積み重ねながらも、変えるべきところは変えていく。
そんな風にもっと、「一寸先の未来」を明るくするための行動を選んで、積み重ねてみようじゃないの。
「塵も積もれば山となる」って言うしね。
今日1日という小さな点は、決してバカにならない。
あなたにとって今日という日が、大きな1歩となる1日でありますように。
今回も最後まで読んでくれてありがとう!
では、また会おう!
〜To be continued〜